前回のブログで東京マラソンに当選したことを書きました。

早速、ランニング・山でのトレイルラン・筋トレ等を始めています。

先日、山に行こうと思ったところ、台風15号の影響で一部土砂崩れがあり、通行止めになっていたので、山に入ることをあきらめ、近くをランニングすることにしました。

静岡市丸子あたりをランニングしていると、戦国時代の細川幽斎(藤孝)が、豊臣秀吉の小田原攻めの際にこの地のことを詠んだ歌碑がありました。

細川幽斎といえば、「本能寺の変」で織田信長を自害させた明智光秀の大親友でもあり、幽斎の息子と光秀の娘を結婚させており、親戚関係にもなっているほどの仲です。

「本能寺の変」の後、光秀は幽斎に対して協力を求めます。

しかし、幽斎はかたくなにこれを拒みます。

その後、最終的に光秀の敵であった豊臣秀吉に味方するようになります。

幽斎が親友であった光秀の見方につかなかった理由として一般的な歴史学者の見解はこうです。

もともと光秀よりも立場が上だった幽斎が、光秀の下につくことをこばんだということです。

実は自分の見解はそれとは全く異なります。

光秀が「本能寺の変」を計画した際、あらかじめ自分から協力要請の手紙が来たら、かたくなに断るように幽斎に手配しておいたということです。

光秀は、自分が信長に対して謀反を起こせば、真っ先に命の危険にさらさせるのは、親友の幽斎と自分の娘です。

彼らの命を守る一番の手段は、自分を裏切らせることだと光秀は考えていたのだと思います。

2017年に、光秀が『本能寺の変』の後に、反信長勢力の武将土橋重治に送った手紙が発見されました。

この手紙には、土橋重治が光秀へ協力することへの感謝や、室町幕府の第15代将軍である足利義昭が京都へ帰洛することへの理解が書かれており、光秀の目的が「天下統一」ではなく、「幕府再興」だということがうかがえます。

幽斎と光秀は「幕府再興」を強く願っているという共通の認識を持っていたので、幽斎も本能寺の変の協力者であったかもしれません。

光秀は信長を討つということだけではなく、その後のこともきちんと計算し「本能寺の変」を実行していたのだと思います。

以上はあくまでも自分の想像にしかすぎませんし、歴史学者の考えに異論を唱えるものでもありません。

特に、「本能寺の変」は資料があまり残されていないので、想像して仮説をたてるのは自由です。

歴史が面白いと感じるのは、事実だけを見るだけではなく、事実から色々なことを考えていくことです。

このように自分なりに考えていくことで、歴史の点と点がつながり一本の線になるようなことも楽しみとなります。

「社会」という科目は暗記するだけでなく、考える科目でもあると思います。

自分なりに考えを巡らせて、楽しめるようになるともっと勉強は面白くなります。

勉強に「楽しむ」という要素も加えていきましょう。

中学部主任 理科・社会担当 小澤