こんにちは、私は、自宅のある焼津から牧之原(島田)まで週に何回かランニングをしています。普段あまり気にせずに走っているのですが、そこには非常に興味深い史跡がいくつかあります。今回はそんな史跡を紹介したいと思います。

牧之原という土地は、今年開拓150周年を迎えるということです。江戸から明治へと時代が変わり、徳川慶喜が駿府(静岡)に移り住んだことに伴い、多くの家臣たちも静岡に移り住みました。武士から士族へとかわり、職を失った士族たちは、勝海舟(江戸城無血開城を実現)から牧之原の土地を与えられ、刀を鍬(くわ)にかえて苦労を重ねながら茶の栽培を始めました。それがきっかけで静岡が「茶の日本一の産地」になったということです。

まずは、自宅から4kmほど走ると、医王寺というお寺があります。ここは、私の先祖の位牌があるところなのですが、「日本最後の仇討ち」が行われた場所です。*「日本最後の仇討ち」といわれる場所は全国にいくつかあるようです。

大谷内龍五郎の墓(医王寺)

 それは、明治3年に起きました。幕末、上野戦争で薩摩・長州との戦いのあと、江戸から95名の徳川警護隊の彰義隊が静岡に移住しました。生活に困窮したメンバーのうち、斉藤金左衛門と上野岩太郎が沼津への就職が決まりました。しかし、それを彰義隊への裏切り行為とみた他のメンバーが、その2人を殺害するという事件が起きました。殺された斎藤金左衛門の遺族が仇討ち申し出たのですが静岡藩に却下され、殺したメンバーも逃亡してしまいました。そこで遺族は彰義隊のリーダーである大谷内龍五郎という人物に決闘を申し込みました。しかし、大谷内はこの決闘によって牧之原が混乱に陥ることを避け、自ら部下の責任を取り切腹し、この事件の解決をはかる道を選びました。このお寺の本堂で切腹が行われ、介錯は殺された斎藤金左衛門の息子が行いました。一刀目は大谷内の膝を切りへたりこみ、大谷内が「しっかりやれ」と励まし、首を切り落としたといわれています。

 

今井信郎の屋敷跡地

そこから2kmほど行くと、坂本龍馬を殺害したとされている京都見廻組の今井信郎の屋敷跡があります。彼は、江戸の幕臣の家に生まれ、剣術の腕もあり、戊辰戦争では最後まで戦い抜いたといわれています。龍馬殺害に関与したとされ捕まりますが、明治5年の特赦にて釈放され静岡藩に移り住みました。釈放には西郷隆盛の関与があったともいわれていますが定かではありません。その後初倉村の村長も務め、現在の榛原高校の設立にも尽力したそうです。

 

 

 

中條景昭像

さらに1kmほど上に上がると、牧之原開拓士族のリーダー中條景昭の像があります。彼も今井信郎と同様剣豪で知られ、徳川慶喜の警護役を務めました。彼のお墓は近くの種月院にあり、勝海舟が葬儀委員長を務めました。

 

 

 

 

私の身近なジョギングコースにも、明治維新期の日本の歴史を動かす大きな出来事に関係した人々の遺構が多く残されています。これには非常に感慨深い気持ちになります。私はマイティーで社会を教えています。ちょうど中学2年生は、歴史の「明治維新」のところを勉強していると思います。歴史には失敗したこと成功したことなど様々な出来事があります。過去を勉強することは決して無駄ではなく、私たちがこれから生きる上で大きなヒントを得られることもたくさんあります。皆さんの周りにも日本の歴史の変革につながった遺構が多くあると思います。ぜひ見つけてみてはいかがでしょうか。

理社担当 小澤